その日はリトルリーグの卒団記念大会。息子の最後の試合だった。本来ならば、三塁手として出場しているはずの息子は、三角巾で右腕を吊るしてベンチにいた。半月前の試合で、右腕にデッドボールを受けたからだ。
野球にデッドボールはつきものだが、当たり所が悪かったようだ。アイシングをしても痛みが去らない。病院に連れて行くと、「右前腕の亀裂骨折で全治約2か月」という診断。硬球を使うリスクだ。彼の右腕はギブスで固定された。
これで最後の大会への出場は無理。だが、本人としては何としても出たいと言う。そこで、右腕を使う守備は無理だが、打撃だけなら何とかなるかもしれない。チャンスがあれば代打で・・・本人も、私も、そう考えた。
トレーニング用の短いバットを購入し、左腕だけでのティーバッティングを開始した。ところが、片腕だけではスムースにバットが振れない。そこで、ギブスをはめた右腕を、バットに添えて構えることにした。素振りをさせてみると、スムースな振り出しになった。
あとは、インパクト直前にバットから右腕を離せば、骨折した右腕に衝撃が伝わらない。実際にボールを打ってみると、いい感じだった。このティー打撃を繰り返すうち、強い打球が飛び出すようになってきた。素振りとティーバッティング、彼はこの練習を毎日繰り返した。
試合当日、僅差のリードで最終回を迎えた。いよいよ最後の攻撃。その時、ベンチにいる息子と目が合った。コーチの私は、監督に「代打で」と進言した。監督は一瞬迷った様子だったが、息子に「行くぞ」と言って、主審に代打を告げた。
主審が、相手ベンチに代打を知らせたときにクレームが付いた。相手監督は、三角巾で右腕を吊った息子を見て、「出場させるべきではない」と主張した。下手をしたら取り返しのつかないことになる。野球の指導者として、当然の主張であり忠告だった。
それからは、主審を交え「出したい」「いや出すべきではない」の話し合いになった。結果、これがリトルリーグでの最後の打席になること。また、万一のアクシデントに関しては、父親である私が全責任を持つことで、何とか代打出場が認められた。
試合が再開された。息子は、片手で一度素振りをすると、バッターボックスに入った。初球だった。ストライクゾーン真ん中にきたストレートだった。いい音がした。ボールはレフトフェンスを越えていった。
これは、十四日目「稀勢の里」の左肩のテーピングを見て思い出したことだ。その日、稀勢の里は敗れたが、翌日の千秋楽、見事な逆転優勝を決めた。息子の片腕ホームランは、我が家だけのささやかな思い出話だが、「稀勢の里、涙の優勝!」は、相撲ファンの間で、いつまでも語り継がれる「伝説」となった。
「Tennessee Rose」
エミルゥ・ハリスのヒット曲・
1982年に9位に入りました。
2017.3.30
寒い時期、毎日食卓に上った「白菜漬け」が終わると、今度は「ぬか漬け」の出番。パッツィーは、冷蔵庫から糠床を出してきて野菜を漬け始めた。キュウリ、カブ、ナス、大根、オクラ、ミョウガ、セロリ・・・ぬか漬けにすると野菜が一段と美味しくなる。「糠」の力は偉大だ。
ぬか漬け発祥の地は、北九州だといわれている。江戸時代、小倉城藩主「細川忠真」が食べ始め、それを城下に広めたそうだ。2000年前には塩漬けがあり、平安時代には味噌漬けまであったのだから、ぬか漬けの歴史というのは、思っていたよりも浅い。なぜだろう?
漬物屋さんのサイトにその答えがあった。
<このころ(江戸時代)から白米として食べる習慣が根付いたからです。それまで大半の人は玄米を食べていました。白米が一般的に広まると「糠」が余ってくるようになり、そこから「糠」の利用法が考えられるようになりました。その一つが「ぬか漬け」なんですね>
なるほど・・・「糠」は、玄米を精製して白米にするときに、削り取ってしまう米の外皮だから、玄米を食べていた庶民の手元には「糠」がなかったわけだ。ところが、白米を食べる殿様の住むお城には「糠」があったので・・・小倉城藩主が最初とは、そういうことだ。
元禄時代、玄米食から白米食に変わった江戸では「脚気(かっけ)」が大流行し、それは「江戸患い」とも呼ばれたという。領地では白米を食べられなかった貧しい地方武士たちが、江戸勤めになり、世間体を気にして白米を主食とすると、たちまち「脚気」に罹る。ところが、彼らは、領地に戻るとたちまちその「脚気」が治る。彼らからすれば、まさに「江戸患い」だ。
「脚気」の原因は、玄米から「糠」を削り取ったゆえのビタミンB1の不足だった。この治癒や予防にひと役かったのが「ぬか漬け」。よくよく考えてみれば当然のことだった。余談だが、江戸時代中期以降、大阪でよりも、江戸で蕎麦が主流になった背景には、蕎麦に含まれるビタミンB1が「江戸患い」を防ぐ効果があったからだといわれている。
日本最古の糠床が小倉城近くの八坂神社にあるという。「生きた資料」として、研究者や企業も訪れるそうだ。「発酵菌を呼吸させるために、毎日欠かさず手でかき回す必要のある糠床。毎日1回20分程度、夏場は日に2度3度かき回し、冬は、しびれるほど冷たい」と宮司さんは話す。それを380年年間ひたすらに・・・何とも凄い話だ。
「Am I That Easy to Forget」
Carl Belewの自作で、1958年9位にランクイン。
その後数多くのカバーが生まれました。
ここはエディ・アーノルドの唄で。
2017.3.23
一年ほど前。信号が赤に変わったので、右折レーンで車を停止。左側の直進車線の先頭にいたバイクも一緒に停止した。するとその時、バイク左側の歩道にいたおじいさんが、信号を無視して横断歩道を歩きだした。私とパッツィーは、車の中から「危ない!」。
それまで信号待ちしていた車が、左右から一斉に動き出した。「赤だよ!!」バイクの男性が大声で叫んだ。それでも、おじいさんは立ち止まらず進んでいく。再び男性は「ダメ、ダメ、戻って!」。その声が聞こえないのか、それでもおじいさんは歩き続ける。
クラクションを鳴らした車が、間一髪、おじいさんを避けて通過。反対側からの車はブレーキをかけて、おじいさんの直前で急停車した。後続車両が全車停止する中、おじいさんは横断歩道を渡り終え、通りの向こうへ消えた。
「認知症だと思う」とパッツィー。信号の意味が分からないのかと思ったが、彼女いわく「色の意味がわからないのだと思う」。そうかもしれない。<赤>は止まれ<青>は進めを、すっかり忘れてしまったのか、もしくは、<赤>と<青>の持つ意味を、取り違えて記憶しているのかもしれない。そのときはそう思った。
ところが、つい最近、認知症の一種に「ピック病」というのがあるのを知った。実際、この病気による暴走運転で、重大な事故も発生しているようだ。ピック病になると<信号が赤でも、行きたいから突き進む>や、<今、曲がりたいから右折する>という、本能むき出しの運転になるらしい。
それでも、これが運転者であれば、「自動ブレーキ」の普及や「自動運転技術」の進歩、あるいは、強制的な「免許返納」という解決手段があるかもしれない。ところが、歩行者のほうが「ピック病」だと、そうはいかない。取りあげようにも、歩行車に免許はないのだ。
あのとき、赤信号を無視して歩いて行ったおじいさん。激しくクラクションを鳴らされても「何が悪い」とでも言うように妙に堂々としていた。ひょっとすると「ピック病」だったのかもしれない。病気だったら仕方がないが、今思い返してもゾッとするシーンだ。
運転中にお年寄りを見かけたら・・・徐行しかない。
「King of the Road」
ロジャー・ミラーの自作。
1965年カントリーチャートで1位、ビルボードHot 100でも4位の大ヒット。
私も、ステージで時々唄っています。
20173.16
クリームシチューをご飯にかける人が、こんなにいるとは思わなかった。ハウス食品が、インターネット上の特設サイトで「あなたはシチューとご飯、わける?かける?」と問いかけたらしい。すると、4割もの人が「かける」と回答していた。
9万件の回答のうち、「わける派」は58%で「かける派」が42%。都道府県別でみると、新潟と富山の県境から「西」が圧倒的に「わける派」が多い。「かける派」が健闘したのは、青森を筆頭とする東北勢が中心で、あとは北関東と山梨、長野など。ただ、その中に、鹿児島と沖縄も入っているのが少し不思議。しかも沖縄は71%と「かける派」の全国トップなのだ。
ハウス食品はこう説明している。「寒い北東北には鍋物の文化があり、汁気のあるものをご飯にかけるのに抵抗がないのでは」。また、鹿児島・沖縄については「沖縄には、もともとクリームシチューをご飯にかける文化があると聞いていた。そこから、食文化でつながりがある鹿児島に波及した可能性もある」。
寒い地方が「かける」のは、なんとなくわかる。だが、暖かい沖縄に、クリームシチューをかける文化があるというのは驚きだ。そこで確かめてみた。すると、沖縄のかたが書いたブログに「我が家では、ビーフシチューもクリームシチューも、ご飯にかけて食べています。物心がついたときには、すでにご飯にかけるスタイルでした」とあった。やはり「かける」文化があるのだ・・・
この「かける」「かけない」も含めてだと思うが、ハウス食品は「クリームシチューの食べ方は、家庭ごとにガラパゴス化している」と分析している。そうなった理由は、クリームシチューを外食として食べることが少ないため「標準」を知る機会がないからだとしている。
そういえば、つい最近、クリームシチューの隠し味に「味噌」を入れるというのを聞いた。このように、それぞれの家庭ではクリームシチューが独自の進化を遂げ、それが「我が家流」として家族の間だけに伝わっていく。そんな流れの中で、「かける習慣」も生まれのかもしれない。
クリームシチューをどのように食べるかは、人それぞれの自由だ。ただ、よその食卓に招かれたとき、「かける派」の人がそれをやると、料理を作った人が「おかずが口に合わなかったのか」と気にするかもしれない。「我が家流」とは、あくまでも我が家だけの流儀なのだ。
余談だが、最近は、相撲部屋でもクリームシチューを食べるそうだ。力士たちは出身地には関係なく「かける派」のような気がする。体を作るため、大鍋に入ったクリームシチューをどんぶり飯の上にかけて、それを何杯も、何杯も・・・
先日、パッツィーが、新聞に載った番付表を切り抜いていた。もうすぐ「三月場所」が始まるのだ!
「Miss the Mississippi and You」
ジミー・ロジャースが1932年にレコーディング。
マール・ハガード、1969年リリースのアルバム
「Same Train a Different Time」に収録。
私も、時々ライブで唄っています。
2017.3.9
冬眠していたメダカが動き出した。もう少し暖かくなると、スーパーの鮮魚コーナーに初ガツオが並ぶ。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」、江戸時代の俳人・山口素堂の有名な句だ。語呂がいいので、つい「目に青葉」と詠んでしまうが、「目には青葉」が正しいようだ。
今でも「初ガツオ」は少し値段が張るが、江戸時代は飛び切り高かったようだ。歌舞伎の人気役者「中村歌右衛門」が、カツオ一本を「三両」で買ったという記録が残っているらしい。一両は今の約十万円ぐらいだというから、たとえ縁起物だったとしても、とてつもない値段だ。
我が家では、カツオを食べると必ず「銚子」の話になる。パッツィーは、今でも、銚子で食べたカツオの刺身を「いままでの人生の中で一番美味しかった!」と言う。本当にそうだ。あのときのカツオの刺身は、感動するほど美味かった。
三十年前のあの夏、我がチームは一泊二日で銚子に遠征した。銚子リトルリーグ主催の「黒潮杯」に出場するためだ。息子は選手として、私はコーチとして、パッツィーは世話役として娘を連れて、一家全員揃っての銚子遠征だった。
球場に到着。まず目についたのは色とりどりの大漁旗。「さすがは漁師町」と感心していたら、昼食時、主催の銚子リーグから差し入れがあった。大皿に豪快に盛られたカツオの刺身。銚子リーグのご父兄には、漁師のおかみさんが多いようだった。
差し入れはそれだけではなかった。おかみさんたちは、水槽を指さし「どうぞお好きな飲み物を」と勧めてくれた。大きな水槽にはたくさんの氷が。その中には、選手用のジュースに混じって、缶ビールが山ほど浮いている。豪快! それを見たパッツィーは、うれしくなってそれから笑いっぱなし。
冷えたビールでまずは乾杯。次に、カツオの刺身を一切れ食べてビックリ。美味い! 普段食べているカツオとはまるで別物のよう。もう一度、冷えたビール、そしてカツオを食べる。やっぱり美味い! それからは、ビール、カツオ、ビール、カツオ・・・水槽まで往復した回数はパッツィーが一番多かった。
あのときのカツオは確かに美味しかった。ただ、その味をいつまでも忘れないのには、もう一つ理由があるのかもしれない。誰にでも、その曲を聴いた瞬間、それが流れていたころの情景が、ありありと浮かび上がるような「懐かしい曲」があると思う。
あの時の「カツオの刺身」も、それと同じなのかもしれない。「今までで一番美味しかった」と話すたびに、翌日は雨で、体育館でバスケットの対抗試合だったことを必ず思い出すからだ。白熱する試合展開に盛り上がる会場。弟の活躍を見た娘が興奮して・・・家族全員で遠征した「銚子の夏」だった。
「Lonely Soldier Boy」
ジョニー・ディアフィールド。1961年に日本のチャートで1位に。
日本だけでのヒットだったとは、後になった知りました。
これを聴くと、どういうわけか中学校からの帰り道を思い出します。
その時、レコード店から流れてきたのかも・・・
2017.3.2