学生時代の4年間、中央線の国分寺に住んでいた。
下宿は、鉄道学園(当時)のすぐそば。4部屋ある中で一番広い部屋だが、
牢獄のように日当たりの悪い四畳半が私のねぐらだった。
とにかく時代に取り残されたような下宿屋だった。風呂は、遠くの銭湯まで
石段を上って行かねばならず、その上、台所にはガスもなく、その小さなスペース
には、当時でも珍しくなっていた旧式の石油コンロ一台があるだけだった。
それでも、入学したての数か月は、家主のオバアサンが、老人食のような夕食を
作ってくれていた。だが、私たち下宿人たちの我がままに嫌気がさしたのか、突然
食事の配給を止めてしまった。
となると食事は自分で・・・。だが、どう考えても、この下宿の設備では自炊は無理。
やむなく、食事は外でということになった。
そんな環境だから、もちろん朝食は抜き、昼は学食で済ませるとして問題は夕食。
だが、私には強い味方があった。
国分寺駅北口を出て一つ目を右折すると、右手に「金ちゃん食堂」がある。
そこは本物の大衆食堂、安い・速い・美味いメニューがズラリの定食屋さんだ。
それでも、毎日「金ちゃん」でとはいかない。お金の無い日が多いからだ。
少ない仕送りが来ると、一番先に部屋代を払う。その次には、よせばいいのに、
レコード屋に行ってカントリーのLPを買う。そして、名画座で三本立ての洋画を
観てしまい、それから麻雀で負けて・・・
速い話が計画性のかけらもないのだ。だから、月の半ばになると「金ちゃん」へも
おいそれとは行けなくなる。そして、月の後半にもなると、これから、いったい
どうしよう?状態になる。もう、こうなったら、田舎に追加支援をお願いする以外に
方法がない。
また小言を言われるだろうなぁ。だが、電話をしなければ。
あっ、電話代もない。ウーン、仕方がない、また、隣の家で電話を借りて・・・・
「夜分スミマセン。アノー電話を」
「百番を回してくださいね」
こんな感じで、上手く追加支援が到着すると、真っ先に「金ちゃん」に駆け込む。
何にしよう?今日ぐらいは豪勢にいこう。ウーン、迷う。とかなんとか独り言を。
それでもやっぱり「納豆定食の大盛り!」と、いつものやつを頼んでしまう。
そして慌てて、「豚汁も付けてね!豚汁もね!」と。
貧乏生活だったが、思い出すと懐かしい。いつぞや、パッツィと国分寺に行ってみた。
だが、あの辺りは、すっかり変わり、「金ちゃん」もなくなっていた。
椎名誠風に言えば、「哀愁の街、国分寺に霧が降るのだ!」
「Excuse Me」
1961年の作品。私たちのレパートリーでもあります。
国分寺時代、バック・オーエンスを夢中で聴いていました。
2013.2.21