「天地明察」という時代小説がある。江戸時代前期、幕府に仕える囲碁棋士であり、天文暦学者でもある「渋川春海」の生涯を描いたもの。吉川英治新人文学賞をはじめ、本屋大賞など数々の文学賞を受賞した「冲方丁」(うぶかたとう)の力作だ。
その中に、会津松平家の初代藩主「保科正之(ほしなまさゆき)」が登場する。名君とうたわれた正之は徳川家康の孫で、三代将軍「徳川家光」の異母兄弟にあたる。家光は謹直で有能な正之を高く評価。自分の補佐として重く登用し、幕府改革に腕を振るわせた。
正之は、家光の死後も引き続き四代将軍家綱の補佐を務める。江戸市民の生活のために玉川上水を作り飲料水の安定供給を確保、また、明暦の大火では、焼け落ちた江戸城の天守閣の再現を取りやめ、その資金で焼け出された庶民を救済するなど、幕政において数々の業績を残した。
正之は、幕政のみならず藩主として会津藩政にも力を注いだ。東北の会津は冷貧の地、度々飢饉に襲われる。正之は「飢餓は君主の名折れ」として、領内に初年度は一つ、最後には二十三ヶ所もの備蓄用米蔵を作り、凶作の年にはその米をことごとく放出して貧民・窮民を救済。その偉業は「会津に飢え人なし」と称えられた。
余談だが、保科正之は、加賀の四代藩主「前田綱紀(まえだつなのり)」にも大きな影響を与えた。正之を尊敬する綱紀は、保科の娘(当時10才)を妻にする。やがて独り立ちした綱紀(19才)は、岳父保科正之の後見を得て藩政の改革に乗り出し、新田開発、貧民救済、学問の普及に力を注ぎ、「加賀に貧者なし」と称賛を浴びた。
昨年末、電気の止まった家でティッシュペーパーをかじる二人の娘の記事があった。昨日は、関東に「子供食堂」が23ヶ所できたというニュース。子供食堂とは、貧しい子供たちに暖かい食事を提供するNPО設立の施設だ。飽食の時代といわれて久しいが、そんな現在でも飢餓がある。
400年ほど前、「飢餓は君主の名折れ」として立ち上がった藩主がいた。国に必要な人材であると、将軍から引退を引き止められていた保科正之は、やがて隠居が許され会津に戻った。正之が駕籠に乗り領地を視察すると、それを聞きつけた領民が沿道に溢れた。駕籠が止まると、領民は「会津に飢え人なし」を成し遂げた正之に感謝の土下座をした。ほとんど目が見えなくなっていた正之は駕籠の中で泣いた。
「Coal Miner's Daughter」
1967年に大ヒットしたロレッタ・リンの自作。
オープリーの映像です。
2016.1.12