今ではまったく見なくなった「わら半紙」だが、昔、テスト用紙とか、学校から配布されるガリ版刷りの連絡用紙などにはすべて「わら半紙」が使われていた。それは、今のコピー用紙のように真っ白ではなく、少し薄茶色がかっていて、「ざら半紙」とか「ざら紙」とも呼んでいた記憶がある。
「わら半紙」は今でも流通しているらしい。本来、麦や稲の「藁」で作る「わら半紙」は、その色からしてどうしても安物というイメージがある。ところが、現在では原料の藁の確保が困難で、再生紙を原材料とするため価格は普通紙より高いらしい。
「わら半紙」で思い出すことがある。息子が小学校低学年だったある日、パッツィーが息子の部屋を掃除していると、机の引き出しに入っている草履袋がパンパンになっていた。不思議に思った彼女が中身を点検すると、そこに入っていたのは大量の「わら半紙」だった。
学校でやった算数テストの答案用紙の山。そのどれもがひどい点数だった。おまけにそれを隠していたので、パッツィーは大いに怒った。しかし考えた。低学年で教わる算数は基礎中の基礎だ。そのままにはしておけない。気を取り直した彼女は、その日から息子に特訓を開始した。
いままでなら、学校から戻ってきた息子は、ランドセルを部屋に置くと、すぐに外に飛び出して暗くなるまで近所の子供たちと遊びまわる。ところが、今日からはそうはいかない。テーブルをはさんでパッツィーの前に座らされ、算数の問題集を広げなければならない。
彼女の指導は厳しかった。塾の教師が他人に教えるわけではない。自分の子供なので、理解するまで遠慮会釈なくビシビシやる。傍で見ている私が可哀そうになるほど、連日、息子は徹底的に鍛え上げられた。
成果はすぐに現れ、息子は算数テストで高い点数が取れるようになった。まさに、鉄は熱いうちに鍛えよだ。そこで思った。息子は、どうしてテスト用紙を捨てなかったのだろう?学校からの帰り道、林の中にでも捨ててくれば、不成績を隠せたのに。
おそらく、この「算数が全然わからない」という状況から、何とか抜け出したいという気持ちがあったのかもしれない。ひどい点数なので母親に叱られるかもしれないが、それでも・・・その葛藤の結果が「見つけやすい草履袋の中」だったような気がする。
あの頃、足し算、引き算の応用問題に苦労していた息子は、学年が進むにつれ、最後には数学を得意科目とするようにまでなった。時の経つのは早い。考えてみれば、その息子の二人の子供たちは、そろそろ「あの時の自分」と同じような年頃になる。
「With the Circle Be Unbroken」
作られたのが1907年という古い讃美歌。
ビッグネームが続々登場します。
2016.3.13