小学校への往復途中、ちょっとした小山があった。ある日の帰り道、みんなが山道を抜けようというので、私も一緒に細い道を昇った。途中までは順調だったが、下りにさしかかったとき崖に出た。抜け道になっているようだが、私は迂回すべきだと思った。
ところが、誰かが先頭を切って崖を降り始めた。すると、他のみんなも、先頭と同じように蔓につかまったり、飛び出している石に足をかけたりして次々と降りだした。私が最後だった。少し躊躇したが、みんなができるなら、自分にもできるだろうと思い、崖を降り始めた。
それが間違いだった。途中で急に体が動かなくなった。そこまでは蔓につかまって後ろ向きに降りてきたので下を見なかったが、窪みで小休止したとき、下を見てしまった。先に着地した友達は下から、アレコレアドバイスを送ってくるが、どうしても体が動かない。
大いに焦った。しかし、そのままでいるわけにはいかない。しばらくして腹をくくった。脂汗を書きながら慎重に石に足を乗せ、わずかに突き出ている木の根っこに手をかけ、最後には腹で崖を滑るようにして着地した。それ以来、どんなに誘われても、その道を二度と通ることはなかった。
それほど高い崖でもないのに、どうして・・・。思い当たるのは、幼い時、高いところから落ちて大けがをしたこと。左肘の複雑骨折だった。落下していくときの恐怖と、そのあとの激痛は今でも覚えている。体が動かなくなったのは、そのせいかもしれないと思った。
そういえば、ずいぶん前に、屋根の修理を見ようとして、はしごで屋根に登ったことがあった。そのときも、登る時には何ともなかったが、いざ降りようとしたとき、足がすくんでまったく動けなくなってしまった。幸いすぐそばに二階の小窓があったので、無事家の中に入ることができたが、これもあの時の崖と同じ状態だったような気がする。
普段、普通に生活しているぶんには、高いところにいても特に支障は感じないが、例えば、手すりのない高所や急傾斜の場所に立つと、突然、子供のころ落下したことを体が思い出すのかもしれない。「今後は、絶対に崖を降りない。思い付きで屋根に登らない」。そうしよう!これを忘れなければいいのだが。ところが最近物忘れが・・・。
2017.9.23
子供の頃、夏になるとアイスキャンディーをよく食べた。あの頃、我が家にはまだ冷蔵庫もクーラーもなく、汗をかきながら食べる冷たいアイスキャンディーは格別の味がした。今でも思い出すのは、そのアイスキャンディーをS川で食べそこなったこと。あれは残念だった。
小学校の夏休み、雨でも降らない限りほぼ毎日S川に通った。川までは自転車で自宅から20分ぐらい。釣り竿を自転車のフレームに縛り付け、山道を登り切ると開けた場所に出る。辺り一面は田んぼで、遠くに目的地の橋が見えてくる。その橋の少し上流が、お気に入りの釣り場だった。
その日は特に暑く、河原には誰もいなかった。釣り支度を済ませてから、エサにする川虫を集める。釣り方はいろいろで、深場ではウキ釣り。浅場でやるときには、流れに負けない重りをつけて、置き竿でアタリを待つ。狙うのはハヤだが、釣れてくるのはたいてオイカワだった。
釣りを開始して数時間経ったころ、ふと土手道を見上げると、下流から自転車が走ってくるのが見えた。普段は誰も通らない土手道、珍しいことがあるものだと眺めていると、自転車の荷台に大きな箱と旗が見える。ひょっとしたら? しかし、辺りには民家もなく、こんな人気のない場所で・・・。
自転車は次第に近づいてくる。あれは間違いなくアイスキャンディー屋さんだ! 土手に向かって走り出した。ところが、石がゴロゴロの河原は思うように走れない。それに、アイスキャンディー屋さんの自転車は思ったよりもスピードが出ていて、私の頭の上を通り過ぎようとしている。
焦った私は、「ちょっと待って!」と叫んだ。しかし自転車は止まらない。流れの音で私の声が聞こえないようだ。叫びながら手を振ってみたが、それでもアイスキャンディー屋さんは私の存在に気が付かない。あっという間に自転車は通り過ぎた。
私が土手を駆け上ったときには、自転車は遠くに行っていた。それでもアイスキャンディーを食べたい一心で後を追った。「待ってくれー!!」 何度か叫びながらしばらく走ったが、自転車は停まらない。百メートルほど追いかけて、とうとう力尽きた。
あとで考えた。それにしてもアイスキャンディー屋さんの自転車は速かった。普通は、カランカランと鐘を鳴らしながらゆっくり走るのに。おそらく、彼は村から村への異動中で、ここは単なる通過点。まさかここにお客さんがいるとは夢にも思っていなかったに違いない。
S川で釣りをしていたことを、最近時々思い出す。そんなに魚が釣れたわけではなかったが、とにかくこの河原で釣り糸を垂れているときは楽しかった。突然の夕立でずぶ濡れになったこともあったし、アイスキャンディーを食べそこなったことも。夏休みの宿題をほったらかして毎日遊び惚けていたS川。懐かしい。
2017.9.6
前回のブログを読んだあと、「あの頃、携帯電話があったらとつくづく思う。時間がないのに、何度も何度も走って・・・」とパッツィー。何のことかと思っていたら、彼女が語りだしたのは、またまた私の失敗談だった。
私たちが結婚する前の年のことだ。その何年か前に、彼女の実家は都心から郊外へ引っ越しをしていた。そこで、私も同じ駅の反対側にアパートを借りて、毎朝、彼女と駅のホームで待ち合わせして、一緒に通勤をすることにした。
パッツィーが「携帯があったら」と言うのは、このときのことだ。ある日、定刻の時間になっても私がホームに現れない。「もしかすると、寝過ごしているのかもしれない」。心配した彼女は、駅から私の住むアパートまで走った。部屋のドアを開けてみると、案の定・・・だった。
「うん、そんなことがあった」と私が軽く相槌をうった。すると、「それも一度や二度ではなかった。私も遅刻しそうになるし、本当にまったく・・・」と、40年以上も前のことでさんざん叱られてしまった。
そんな私が携帯電話を使うようになったのは、会社員時代のこと。何か束縛されるような気がして嫌だったが、「仕事で必要だから」と会社から強制的に支給された。そういうわけで、仕方なしなしに使っていたが、あの頃の携帯はすぐに電池がなくなってしまうので、もう一つのスペア用の電池を別に持っていなければならなかった。
しかも、その電池というのが大きくて重いので、ポケットに入れて出歩くときはとても困った記憶がある。ただ、それも少しずつ使いこなせるようになると、それまで必携だった「電話帳」がいらなくなったり、また、必要な時にすぐに連絡がとれるようになったりと、その便利さもわかってきたりした。・
最初は、あんなに持つのを嫌がっていたが、ふと気が付くと、携帯電話は、自分の生活に欠かせないものになっていた。昔、携帯を家に忘れて外出したことがあったが、そのことに気が付いてから、一日中何だか落ち着かなくて困ったこともある。
「あの頃、携帯電話があったらとつくづく思う」とパッツィーが言ったが、本当にそうだと思う。確かに、あの時に携帯電話があれば、彼女は走らずに済んだに違いない。それにしても、誕生祝の日にも彼女を走らせて、通勤待ち合わせのときも走らせて・・・反省してます!
2017.8.27
先日、駅で若い女性が公衆電話を使っているのを見かけて、携帯を忘れて出てきたのかもしれないと思った。そんな話をパッツィーにしていたら、彼女は言った。「携帯のない昔は、どうやって連絡をとっていたのかしら?」。友達とかの待ち合わせのことらしい。それもそうだ。
それでも、携帯がなくて下宿先にも電話がない学生同士が、別段何の問題もなく、定刻に同じ場所に集まっていたから今思えば不思議だ。そんな話をしていたら、自分が学生時代に失敗をしたときのことを思い出した。
ある日、私が雀荘でマージャンをしていると、そこにパッツィーが飛び込んできた。そしていきなり「何をしてるの!」。そこで私はようやく失敗に気が付いた。うっかり忘れていたが、その日、私の誕生日を、パッツィー家のみなさんが祝ってくれるという日だった。
ところが、みんな首を長くして待ってくれているのに、私は雀荘でのんびりとマージャン。彼女が怒るのは当然だった。麻雀仲間に事情を話し、私は急遽マージャンを撤収。道々、彼女にさんざん叱られながら、急いで彼女の自宅へ向かった。
ずいぶん昔のことなので記憶もあやふやだが、その日は日曜日だったような気がする。今だったら、携帯で「早く来なさい!」の一言で済むのだが、当時はそうはいかない。その一言を伝えるため、まず彼女は十五分ほど歩いて中央線の駅に向かった。
そこから電車に乗って、私の下宿行ったのだと思う。ところが、駅から坂道を歩いてやっとたどり着いた下宿先に私はいない。そこで彼女は考えた。それなら行先はあそこしかない。というわけで、また坂道を歩いて駅まで逆戻り。そして、そこを通り過ぎて坂を下ってМ荘という雀荘に・・・怒るはずだ。
あの時代、携帯電話がなくても「そんなに不自由はしなかった」。当時を振り返って、ぼんやりとそう思っていたが、よくよく考えてみれば、実際にはそうではなかったのかもしれない。あの時の自分の失敗を思い出して、つくづくそう思った。
「Workin' Man Blues」
マール・ハガード1969年のNo.1ヒット。
大好きな曲で、私も愛唱しています。
2017.8.16
埼玉栄高校相撲部の記事があった。埼玉栄といえば、豪栄道、貴景勝、大栄翔、北勝富士、妙義龍、英乃海などの現役関取を輩出している相撲の名門校。その相撲部の寮では、部員1人当たり1ヵ月に21.5キロもの米を消費するそうだ。1日にすると約5合というから、やはり相撲部員の食べる量は凄い!
我が家では、私も息子もご飯が大好きで、二人で競うようにご飯をお代わりしていた時期がある。あの頃、我が家では、最盛期にはどのくらいの米を食べていたのだろう。パッツィーに訊いてみた。すると、息子が高校の野球部にいた時期がピークだったようで、一家4人で月に30キロの米が必要だったという。
ということは、女性陣はパンが好きであまりご飯を食べなかったから、息子と私の男2人だけで月に30キロ近い米を食べていたことになる。それなら1人当たりにすると15キロだから、埼玉栄の相撲部員の21.5キロにはもちろん及ばないが、それでもかなりの量を食べていたわけだ。
そういえば、サラリーマン時代のあの頃。会社近くの定食屋さんなどでランチを注文するときには、必ずご飯を必ず大盛にしてもらうか、おかわりを注文していた。とにかくご飯が大好きで、家ではもちろん、外でも、ひたすらご飯を食べまくっていた。
ところが、そんな私も、今は、昔ほど食べられなくなってきた。それでも長年の習慣というのはなかなか抜けず、外食のときなど、気が付くと、ついご飯の大盛を注文していたりする。そして、最後には「少し食べすぎた」と後悔し、パッツィーに笑われている。
ちなみに、かつて一家4人で月に30キロも食べていたお米も、子供たちが独立し、今ではパッツィーと2人で月に5キロぐらいになった。
そろそろ関東でも新米が店頭に並ぶ頃だ。とくに私の場合は、食べ過ぎに注意しながら、海苔や玉子や納豆のおかずで。いや、タラコやスジコもご飯に合うし、イワシの干物もいいし・・・とにかく、みずみずしい新米の味と香りが楽しみだ!
「Bouquet of Roses」
エディ・アーノルド1948年のNo.1ヒット。
1975年にミッキー・ギリーがカバーしました。
2017.8.5